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●6/10日 Occhio di Zeus [旅行]

October 26, 2007
●6/10日 Occhio di Zeus

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↑ペスキチの朝。ホテルの裏の道から。
 この奥の緑の部分の先端にもTrabuccoがあるのだ。

この日は移動日。海水浴に執念を燃やすシャンリィさんと午前中は海へ。10:00のチェックアウトをのばしてもらえないかとお願いすると、オーナーの返事は「気にせんでいいから、はよ海に行け!」。海水浴後、このホテルの自家製(?)オリーブオイル2Lずつを抱え、みんなに挨拶を済ませて、出発。

時間のない時のお昼、高速道路のSAで軽く済ますことが結構あるが、今回初めてパスタ

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と、チキンサラダ

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に挑戦。といっても残念ながら小さなSAだったので、本格的ではない。感想は「美味しくはないんだけど、美味しいよね」。

夕方AbruzzoのPepeさんちに着。ちょうどお祭り。そのメインイベントであるprocessione(プロチェッショーネ/教会の中のご本尊(?)を御輿に乗せて街中を練り歩く行進)が始まる時間で、シニョーラと一緒にToranoの街へ。processioneに参加するシニョーラと別れ、私たちは村、じゃない街で唯一の「ちゃんとした」リストランテで夕食。ハウスワインをすすめられたけれど、味見するとどうも好みじゃないので替えてもらった。

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これは後に迎えに来てくれたシニョーラからも「正解。こっちの方が、規模が小さくて丁寧に作ってるとこだから」と言われる。

Toranoに滞在中、食事は基本的にPepeさんちでお世話になるので、ここでご飯を食べるのは今回で2度目。田舎臭い料理なんだけど、やっぱり旨いわ。シンプルで。特にシャンリィさんが頼んだコレ。美味しかった。

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私は好物のOlive all' Ascolana(アスコリ風オリーヴ)。めんどうなので作る家は少なくなったらしいけど、元々は家庭料理。

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パスタは普通に。しかしどちらも、とってもこの地方っぽい。特に細麺のキタッラ(ギターという意味)は。

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かなり体調は回復したけれど、用心してデザートはあっさり系を。に対して、シャンリィさんが頼んだコレはナッツ系のジェラートで、その名もOcchio di Zeus(ゼウスの目)。

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名前の由来を聞くのを忘れたが、聞いてもたぶん「さあ」って返事だろう。味見させてもらったけど、すっっっっごく美味しかった!

そしてこのあたりの食後酒、Genziana(ジェンツィアーナ)。

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どこかで聞いたことがある、と思いつつ、どうしても思い出せなかったが、聞いたことがあるんじゃなくてL'Aquilaのリストランテでご馳走になってましたがな。今、思い出した。年は取りたくない。

さんざん飲んで食って、迎えに来てくれたシニョーラと帰宅。

●6/9土 Castel Fiorentino [旅行]

October 26, 2007
●6/9土 Castel Fiorentino

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今回で3回目。フェデちゃん終焉の地。好きだねぇとしか言いようがない。しかし、いいとこではある。眺めはいいし気持ちはいいし。ちょっと歩くがCastel Paganoほどの距離もないし体力もいらない。そしていつも必ずこの羊たちに出会う。

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もっと近くで写真を撮りたいのだが、この働き者が

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行く手を阻む。羊と一緒でないときは、なかなかに愛嬌があって人なつっこい犬だが、仕事中のマレンマ(系)犬はたいへんに危険だ。その昔山の中で羊を狙う狼と戦っていた犬なのだから。このときは遠くにいた羊飼いが私たちに気付いて制御していたから警告されるだけですんだけれど。

働き者を「決して怪しい者ではないから」と説得(できたかどうかは不明)し、こんな景色を眺め、

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フゥフゥ言いながら頂上に着くと、な〜〜〜〜んと!こんなモノが!「なんじゃ、これ〜〜〜!!」だ。

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しかしこんなもんでひるむ二人ではない。迷わず不法侵入。もし見つかっても「わざわざ(遠い)日本から来たんだから」と言い訳すればたいがいのことは見逃してもらえる。かつてCosenzaでも、このテで市の所蔵物保管庫まで入れてもらって、フェデちゃんのStauroteca(スタウロテーカ/非公開)を拝んだし。

その次に役に立つのが「外人デスカラ、ワカラナイ」。かつてGravinaで、祭りのため車両進入禁止の広場に知らずに突入したときも、警察相手にこれで逃げ切った。だが今回は使えそうにない。この意味はわかるもんね。ガイジンだろうと、言葉が不自由だろうと。

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なんか複雑である。ほったらかしにされて土に帰ってしまうのもなんだけど、あまりにピカピカに修復・復元されちゃうとなぁ。

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これは私たちの愛するPeschiciの街にも言えることで、行くたびに新市街が増殖してるような、観光客も増えているような。街が「開発」により「発展」し、それで暮らしが楽に快適になることは喜ばしい。でも一番大切なものって、一体なんなの?…というのは、鄙びた素朴な街のままでいて欲しいという観光客のワガママなのかね。

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そのPeschiciの港の、いつもの夕方。TEXの『なわばり』は写真の左側の白い建物の下くらい。右下から2番目が『縦列駐車した(拍手)』われらがFiat Croma。

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3日目にしてやっとまともに夕ご飯が食べられた。相変わらず、ここのお母さんの料理はほっとする味。

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意外にもシャンリィさん、Coda di Rospo(アンコウ)が嫌いなことを知る。美味しいのに。

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●6/9土 Trabucco! [旅行]

October 24, 2007
●6/9土 Trabucco!

Monte S.AngeloでMichele様に一生懸命お願いしたおかげか?朝ご飯も少し食べられるくらいに回復。一緒に天気も回復!というわけで午前中は念願の?海水浴。しかしまだ水が冷たいのでお腹を冷やすのはなんだからと、私は日光浴のみ。何日かまともに眠ってないせいか、パラソルの下で爆睡。ハッと目が覚めたときには太陽が移動して、膝から下が真っ赤になっていた。バカ!と嘆いてる場合ではない。お昼である。

お父様がSan Severo出身のイタリア語の先生から「Peschiciにそれだけ通ってるくせに、まだ行ったことがない?!」と言われて、さっそく昨年トライしたTrabucco(トラブッコ)に再び出かける。このTrabucco、Peschiciを中心としたエリアに何軒もあるのだが、説明が難しい。海に突きだした桟橋のような設備で魚を釣り、その場で食べさせてくれる形態のレストラン、とでも言おうか。

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※日本版トラブッコ発見!
http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000130611150001
まさにコレ!ただしPeschiciの場合は荒波にあらわれる岸壁ではあるが。

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葦簀や簾を使った、見た目「海の家」的なお食事どころではあるが、あなどってはならない。定宿にしている料理旅館のオーナーが薦めてくれただけはある。魚が新鮮で旨いだけではなく、パスタが美味いのだ。料理を頼むシステムが、レストランとは違う。まず受付の窓口に行き、そこで飲み物と料理をオーダー。メニューは窓口の横の黒板。オーダーが決まると、オネエサンが人数分のグラスと飲み物、そして鉛筆で番号を書いた紙のランチョンマットをくれる。それを持って自分の好きなテーブルにつく。お支払いは食後。

窓口に行くと、オネエサンは私を憶えていた。すぐにシェフが現れて、メニューは『おまかせ』に。昨年もオーダーの途中でシェフが現れて「日本人ならマグロの刺身を食え!」と、前菜をマグロに変えられてしまった。このシェフがとても面白いオニイチャンで、生魚の扱い方は南アフリカのベトナム料理店で憶えたとかなんとか。坊主頭でガリガリに痩せてて、この場所でなくFoggiaの駅前の暗がりかどこかで会ったなら、怪しい人以外の何者でもない、という風貌なんだけど。

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この日は刺身盛り合わせ。全て美味。特に右上のカンパチ、その下の、軽く酢でしめた鯖!カンパチは、イタリアでも食べられるのはこのあたりだけらしい。これで『わさび』があれば完璧。日本人としてはね。パスタは残念ながら昨年の「小エビとパセリのリガトーニ」の方が、私は美味しかったと思うけど、どのみちほとんど食べられず。まだ本調子ではない。私の分まで食べてくれたシャンリィさんの胃袋に感謝。

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ついでに今回の相棒もパチリ。Fiat Croma(フィアット・クロマ)。

だいたいレンタカー会社というものは「君たち、ラッキー。(予約より)もうひとつ上のクラスの車だよ」という言い方をするが、つまりは予約したクラスの車を手配できなかっただけだろ?以前借りたFiat Stiloよりましだったが、やっぱりディーゼルはいまいち。高速道路はともかく、私たちが主に走る山道が苦しい。そして馬力に比べて車体が大きすぎ。Monte S.Angeloの駐車係やホテルのオーナーから「この車は大きすぎる!君たちには」と言われる。しかたないじゃん、AVISがよこしたんだから。

で、この大きすぎる車で、午後はCastel Fiorentinoへ。

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●6/8金 それでもやっぱり [旅行]

July 28, 2007
●6/8金 それでもやっぱり

「目が覚めたら、よくなってるかも」という期待は裏切られて、さらに具合は悪くなっており、朝食はパス。暖かい牛乳だけもらっておいた。水分は補給しないとね。とは言うものの、胃腸の痛みだけで別に吐き気があるわけではなく、あいたたた、と言いつつも身体は動くので、シャンリィさんの運転でMonte S.AngeloのMichele様詣でへ。困ったときの神頼みぢゃ!って、Michele様は神様ではなく天使様だし、私も仏教徒ですが。

タッチの差で教会には入れず、お昼にするには時間があったので、久々に城へ。ちゃんとオフィスなんかもできてて観光客受け入れ態勢は以前より整ってはいるのだけれど、初めて来たときの『地元の若者が頑張って町おこし〜』的ほのぼの感がなくなってたなぁ。ハスキーの人なつっこい番犬・ローラもいなかったし。空の色がかなり怪しくり、閉館時間も迫ってきたので、つらつらっと城を見て、昼ご飯へ。

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↑2005年撮影

昼ご飯へ…は、いいけれど、全く食欲がない。まだ胃も痛む。どうしようかと迷いながらも、店まで。「体調がいいときに出直しな」と言われても仕方がないところだけれど、事情を話すと、快く「まかせて」との返事。

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一生懸命、食べやすいメニューを考えてくれたんだけど、それでもやっぱり半分も食べられなかった。すんません。ズッキーニのスープなんて滋味あふれるやさしい味わいだし、野菜だけのセコンドも「具合が悪くなくっても、このセコンドでいいなぁ」と思えるくらい美味しかったし。とは言うものの、改めて今シャンリィさんのサルシッチャ(ソーセージ)見て「やっぱり美味しそう…」と思ってんだけどね。ははは。

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最後のドルチェ、この『ぽよん』とした形のお菓子、どうしても食べたくて厚かましくも「具合がよくなってから食べるから、お持ち帰りにして!」とお願いしたら、これまた快く包んでくれた。私の考える『いい店』って、ただ料理が美味いだけではなく「どうしたら客が喜んで帰ってくれるか」を一生懸命考えてくれる店なのだな。

夕食になっても、食欲は戻らず。一番あっさりなメニューに。

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いつもだったら、このフリットの山に喜々としてして食らいついてるんだけどなぁ。

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このとき一番「食べたいなぁ」と思ったのは、白粥と梅干し、もしくは素饂飩。日本人や〜。

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●6/7木 3つ目のトラブル [旅行]

July 24, 2007
●6/7木 3つ目のトラブル

忙しい日。まずAndriaに行ってBurrataを買い、それからBariへ。Bariの目的は本屋。そしてドタバタとお昼を食べにVarvamingo@Torre a Mareへ。こんなことは滅多にないんだけど、シェフ・Nicolaの子供さんのCresima(堅信式:カトリックの行事)のため、店主(ちゅってもNicolaと共同経営)のDiegoも留守。カメさんが気を利かせてDiegoに電話してくれたので、メニューはまたまたお任せ。まだ動いているトコブシに、シャンリィさん固まる。

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↓生モノにはやっぱり泡モノ。

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さて、お腹いっぱい食べたら一路宿泊地Peschiciを目指す…んだが、なんだか酔いが廻って運転できそうにない。ということでシャンリィさんと交代。私は助手席で一休み…しているうちに、どんどん具合が悪くなってきた。節々が痛いので、どうも熱があるようだ。さらに胃の痛みやらお腹の痛みやら、Peschiciに到着する頃には、さすがの私も「これはやばいかも?」と弱気に。とりあえずTEXの無事を確かめ、食事にまでこぎつけたけれど、全く食欲がない!

こんなパスタも
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こんな魚も
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サラダだって
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めっちゃくちゃ旨そうなのに
まともに食べられたのはジェラートだけ。
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う〜ん、先行き不安ぢゃ!と思いつつベッドにはいると、なんとものすごい雷が!遮るものがないぶん日本の3倍くらい響いて、まるで枕元で鳴ってるような。激しい雨も降り出したけれど、表に干した洗濯物を取り込む気力なし。
「なんか、今、表に出たら雷に打たれそうな気がする。んなわけないけど」
「うん、んなわけないけど。洗濯物のために命落としたくないもんね」
などと言いつつ痛むお腹を抱えて、なんとか眠りについたのだった。

●6/6水 変わったこと、変わらないこと [旅行]

July 23, 2007
●6/6水 変わったこと、変わらないこと

相変わらず30分ほど遅れてBrindisi着。ここからレンタカーを借りるのは2度目。駅のBarで朝食、駅のトイレで洗顔、という、まるで学生の貧乏旅行のような作業をこなして、いざ出発。どこへ?って。そら、Brindisiから一番近いMesagneのCentro Commerciale(ショッピング・モール)、Auchan(オーシャン:地元民は『アウシャン』と呼ぶ)ですがな。3年ほど使用したNOKIAのバッテリーがいよいよご臨終で、新しい携帯を買いに。ショップのおにいちゃんから「どんなのがいいか?」と聞かれて「一番安いの!」。で、即決。私の新しい携帯は79.00euro也。

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↑左は日本で使用中のNOKIA。くどいけどカール・ツァイスレンズ付きね。

Auchanで色々買い物してたら時間がアッという間に過ぎてしまい、予定していたLa Strega@Palagianelloでのランチを諦め(後々これは『しまった!』になるんだけど)、Al Fornello da Ricci@Ceglie Messapico着。駐車場にたまたまいたシェフのお母さん、Doraさんに挨拶。お決まりの「Come state?(みなさん、いかが?)」と言うと、とたんに顔が曇る。な、な、なんと、シェフの父上であり、Doraさんのご主人、Ricci家の大黒柱であるAngeloさんが亡くなった!そうなのだ。昨年の6月にお会いしたときは、お元気だったのに。その2カ月後、8月に急逝。なんてこった。


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天気がよかったのでテラス席で。メニューは、おまかせ。いちいち写真を撮るのは、もう先方も慣れっこ。この写真を撮ってた時だったか、後ろのガラス窓から「中まで写真撮るの〜?」と、シェフのAntonellaが。ははは。そうです。お決まりのアンティパスト攻撃をこなして、ドルチェまでたどり着いた頃には二人とも救急車もん、なくらいお腹いっぱい。相変わらず美味かった。

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その、どうしようもないくらいの腹を抱えてAltamuraへ。いまや定宿となったHotel Svevia泊。昨年化粧直し中だった大聖堂、暮れかける空に映えて、その美しいこと。友人宅でちょっと和んだ後、みんなでPizzeriaへ。「私たち、お昼食べ過ぎたから、ほとんど食べられないけど」と、どの口で言う!こんなもんが目の前に出てきて食べないわけがないのだ。さすがパンの街、Pizzaも旨い!ビールも旨い!

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しかもPizzaだけにとどまらず、大聖堂横のCaffe'で、こんなもんまで!恐るべし鉄壁の胃腸!だったんだけどねぇ。

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※Altamuraのホテルで、2つ目のトラブル発覚!洗濯用にと持ってきていたエ●ールの容器の蓋が開いていて、200ml分、スーツケースの中に流れ出していたのだ。¥100ショップで買った容器だったんだけど。反省:きっちり蓋が閉まる容器にしましょう。

●6/5〈火〉 最初のトラブル [旅行]

July 22, 2007
●6/5〈火〉 最初のトラブル


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トラブルと言うより、単なる私の大ポカ。それはローマ行きの飛行機に乗る、はるか前に発覚したのだ。今回、ローマに着いてから即、Roma/Termini発23:58→07:56 Brindisi着の寝台車、その名も789Tavoliereに乗って一気にBrindisiまで行き、そこからレンタカーで…という予定だった。寝台車のチケットは、5月にイタリアに行ったひとに頼んで、事前にゲット。完璧な計画だった…んだけどね。出発の前日、シャンリィさんとご飯食べてるときに、そのチケットを忘れたことを思い出したのだ。ははは。と、笑ってる場合ではない。

Romaの空港に私より1時間早く到着するシャンリィさん(私はKLM利用・シャンリィさんはルフト利用:一緒に行くんなら同じ飛行機で行きますわね、普通)が、空港駅でまず交渉…は、間違いなく決裂するだろうから、チケットを再度購入。その上で、テルミニ駅で再度交渉、という対策を考えて出発したのだった。

まず空港駅での交渉は、もちろん撃沈。チケット買った証拠なんてないもんね。寝台車は売り切れだったけど1等車のチケットはまだあったので、シャンリィさん、とりあえず購入。ローマの友人宅で夕食をご馳走になって、いざテルミニ駅へ。さて窓口で交渉…と思ったら、とっくに閉まっていた。ははは。と笑ってる場合ではないのでホームへ急ぎ、一等寝台車の車掌と交渉。ケンモホロロとはこのことで、仕方なく指定席のコンパートメントへ。これが見事に満席。私たちの座席はあるけれど荷物を置く場所がない。とりあえず、他の誰もいないコンパートメントに荷物とシャンリィさんを残し、発車ギリギリまで車掌と交渉すべく一等寝台車へ。

このTavoliere号(おそらくTavoliere di Foggia:フォッジャ平原より命名されたと推測)、乗ったことのある方ならわかると思うが、とんでもなく長い!一番前の我々の車両から最後尾の1等寝台車まで、ホームを歩いても2分はかかる。1等寝台の車掌は「何考えてんだ?この東洋人は。チケットもないのに乗せろって?馬鹿も休み休み言え!」とは言わなかったが、たぶんそう思っていただろう。しかし粘り強い交渉の上、予約の客が本当に来なかったら、次の停車駅・Frosinoneで考えてやってもいい、というところまでこぎ着けた。しかし、だ。

実はこの長い列車、1等寝台車だけ他の車両から独立しており、乗り換えるには一度ホームに降りなければならない(つまり1等寝台チケットを持ってる乗客と車掌しか中に入れないので、かなり安全)。Frosinoneでの停車時間は1分。車掌との交渉と荷物を持っての乗り換えは、かなり難しい。列車の狭い廊下を「Permesso(すみませ〜ん、通してくださ〜い)」と断りながらシャンリィさんの待つ1等車に戻る道々考える。荷物を持って、この廊下を最後尾まで戻るか?難儀やなぁ。でも、あの満席のコンパートメントでの8時間はちょっと…などと思いつつ、私たちの指定席ではないコンパートメントに戻ってみると…。

「どないやった〜?」と、3人分の座席に横になって、すっかりリラックスしたシャンリィさんが。ここでもいいか?もし誰か途中で乗ってきたら、他にも空コンパートメントはあるし。ということに相成った。とうとう目的地のBrindisiまで誰も乗ってこなかったので、よかったよかった。と、単純に喜べるわけもなく、なぜか途中全ての電気が消えて、やたらと寒くなるわ、駅に停車する度に違う車掌がチケットの確認に来るわで、もちろん熟睡はできない。鍵のかからないコンパートメント故、車掌がウロウロしてるのは安心と言えば安心なのだが。

合計14時間のフライトで疲れ切った後に、また寝られない一夜を過ごしたことが、次のトラブルへとつながる…んですな、たぶん。

疑問・その1/あんだけ空いた席があるのに、どうして赤の他人ばっかり同じ一つのコンパートメントに詰め込むんだろう?
疑問・その2/指定された座席ではないコンパートメントを占領しているにも関わらず、検札に来た車掌は、そのことには一言も触れない、っつうのもね。助かったけど。

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↑駅ホームの自動販売機。まだピッカピカ。

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↑飲み物だけではなく、こんなものも。

バーコード [旅行]

June 30, 2006
バーコード

2日ほど遅れてローマに着くShanryさんを夕方空港で出迎えて
そのままL'Aquilaに直行。泊まるのは久しぶりだ。
借りたばかりの車だから、慎重に運転して無事到着。
予約したホテルも無事発見!と、ここまでは順調だったのだが
車をどこに止めようかな…とホテルの前を通り過ぎると
その先はもう、旧市街だった。

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↑旧市街は、こんなかんじ。ここはまだマシな方?

「車借りて2時間もたってないのに、いきなり旧市街か?
しかもOpel Astra (1.7 ステーションワゴ〜ン)だぜ!」
な〜んて言ってると、早速後ろの車がイライラしている。
「ええ〜い、曲がるしかない!行くよ!」
「やった、POOh!さん、曲がったよ!」
「こすってないよね、ははは」
などという大変怖ろしいやり取りの後、今度は無事に
ホテルの手前で車を止めることができた。

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↑夕食のデザートは「苺とカスタード」

L'Aquilaの駐車システムは、道路に引いてある白枠が終日無料、
私たちが止めた青枠は、夜間無料・翌朝8時から
自動販売機で買ったチケットを、フロントガラスの前に
置いておくというやり方。

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↑↓ドゥオーモ前広場
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翌日は13時にTorano NuovoのPepeさんちで昼食の予定。
L'Aquila〜1時間〜Teramo〜30分〜Torano Nuovo。
10:30に出発すると余裕だね、ということで
L'Aquilaは初めてのShanryさんとともに、しばし散策。
…したのはいいけれど、城から車までの帰り、道に迷って
買った駐車チケットのタイム・リミットを
大幅にオーバーしてしまったのだ!
「う〜ん、駐車違反切符、切られてるかも〜(経験あり)」
と言いつつ車に戻る。

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「ねぇPOOh!さん、こんなシール、初めからあった?」
「うむ、何じゃこりゃ。記憶にないぞ」
「ありゃりゃ、こっちにも!」
フロントガラスのみならず、全ての窓という窓に、バーコードが
プリントされた小さなシールが貼ってあるではないか!
多少、いやかなり気になったモノの、時間もないし
どこで罰金払うとか、そういうお知らせもないしで
バーコード・シールの付いたまま、私たちはL'Aquilaを逃げ
…じゃない、出発したのだった。

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↑名所の噴水

「これ、目障りやん」「剥がそっか」
と、その後、私たちは貼られていた全てのシールを剥がした。
「罰金の請求が来ても、もうイタリアにはおらんもんね〜
わっはっはっは」と言いながら。

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↑城の紋章

Shanryさんの帰国後、私はBariで小さな車に乗り換えた。
そして、しばらくして気がついたのだった。
「あっっっこの車にもバーコードが…全てAstraと同じ位置に!
しかも今度は窓の内側に貼ってある!」

AVISのバーコードだったんだ…。


※デザートと城の写真以外は2000年撮影

これが原点だったかもしれない[1] [旅行]

June 28, 2006
これが原点だったかもしれない[1]


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これが、私がプーリアで初めて食べたOrecchiette(オレッキエッテ)。もちろん当時のものではない。

Orecchietteと言えば、プーリアを代表する手打ちパスタ。私が初めてOrecchietteを食べたのは10年前の冬、意外にも長靴の踵の先、Otrantoでだった。Otrantoに行く前にOstuniとLecceに立ち寄ってはいるのだが、なぜだか食べていない。冷たい雨のそぼふる真冬のOtrantoの旧市街を散策してホテルに戻ると、シニョーラとともに台所を預かっているノンナ(おばあちゃん)が、
「今日のパスタはトマトソースのOrecchietteだけど、いいかい?」
と言った。

以来、Otrantoの近くを通るたびに、このホテルの経営者一家に挨拶するために寄っていた。ただ、その後ホテルは人手に渡り、今はEdicola(新聞や雑誌を売る店)を経営している。お父さんAntonioと、お母さんRita、そしてRitaの母親であるノンナ、長女Silvanaと長男Claudio、そして少し年の離れた次男のAlessandroの6人家族。2004年に立ち寄ったとき、ノンナが亡くなったことを聞いた。『とうとう、この日が来たか』と思った。最後に会ったのは2002年。お母さんと一緒に隣町の美容室にいたところを突撃した。写真を撮りたかったが、頭にカーラー巻いた姿を撮られたくはないだろうと、遠慮しておいた。

今年もすぐ近くのSanta Cesarea Termeに行ったので、挨拶に寄ろうか迷ったが、行くと必ずお父さんが「昼飯でも喰って行け」というので、時間もないし、こっそり帰ろうと思っていた。しかし昼食を取ったOtranto近くのレストランで、息子のうち一人が病気でなくなったという話を聞いてしまう。
「一番下の息子だったと思うよ」
と言われ、声が出なかった。Alessandroか?初めて会ったときにはまだ13歳で、ちょっと人見知りしてお母さんの後ろに隠れていたAlessandro。次に行ったときには徒歩で水曜日の市場を案内してくれた。その次に行ったときには買ってもらった新しいスクーターで、旧市街まで送ってくれた。そして最後に会ったとき、ノンナのいる美容室まで車で送ってくれたのだ。その時は免許取り立てで、私が運転した方がよかったんじゃないの?と思うくらいの心細さだったけれど。2004年は海軍に行っていて会えなかった。

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↑雨上がりの旧市街

実はその日は、この南の果てから夕方までにプーリアでも北部のMargherita di Savoiaに着いていなければならなかったのだが、居ても立ってもおられずにOtrantoの街まで引き返し、Edicolaに行ってみた。まだ昼休みだった。近くのBarに行って、シニョリーナに
「あのEdicolaの息子さん、Alessandroは元気?」
と尋ねると、
「ええ、元気よ」
と言うではないか。あれれ?実はかくかくしかじか…と説明していると、なんと御本人が入ってきた。なぁぁぁんだ!?レストランからここまで雨の中、半分泣きべそかきながら運転してきたのに!

「みんな元気?お父さんと、お母さんは?」
「うん」
「ノンナは亡くなったんだよね」
「うん、2004年に」
「SilvanaとMauro(旦那さん)は?」
「うん、子供達も元気、大きくなったよ」
「ClaudioはもうAdaと結婚した?」
「Claudioは…死んだ」

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これが原点だったかもしれない[2] [旅行]

June 28, 2006
これが原点だったかもしれない[2]

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↑雨上がりの旧市街

あのレストランで聞いた話は、半分間違いで、半分ほんとうだった。その日は時間がなかったので電話番号をAlessandroに渡し、とにかく出発した。その夜、お父さんから電話があった。
「墓参りはもちろんOKだけど、今度こそ昼飯喰って行くんだろうな!」
と言われ、断れるわけがない。
「Orecchietteが食べたい、トマトソースの」
とリクエストしておいた。今回はほんとにプーリアの北から南を行ったり来たりだ。

6/14の水曜日、お昼少し前にOtrantoに着くと、Alessandroが墓地まで連れて行ってくれた。さすがに運転は素晴らしく上手になっていた。墓地の手前で花を買う。小さな花束を、と言うと
「誕生日?それともパーティかなにか?」
「いえ、お墓に」
「それだったら長持ちする花がいいね、これでいいかな?」
と黄色の菊を取ってくれる。うむ、イタリアでは死者の花・菊は、もっと実用的な意味でも墓地の花だったのだ。
「誰の墓参り?」
と花屋が尋ねたときに、Alessandroが店に入ってきた。花屋の顔色が変わる。
「…Claudioのか?!」
「はい、Claudioとノンナの」
「ノンナには菊でいいけど、Claudioはまだ若いから、もっと華やかな方がいい。この百合ではどうかな?」
と、白に近い薄いピンクの百合でもう一つ花束をつくってくれた。

20060628-otranto04.jpg
↑雨上がりの旧市街

空軍基地の街、Otrantoの墓地には兵士の墓もある。Claudioとノンナは、一番奥の方で静かに眠っていた。昼食に家に戻る前に、Alessandroに事情を聞いた。お母さんRitaとSilvanaには、とても尋ねられないと思ったから。Claudioが亡くなったのは2004年の6月、私が訪れた2カ月後。難しい病気でFirenzeの病院に移ってからは、多少よくなったものの、治療の甲斐なく入院からわずか1カ月後だったらしい。まだ29歳だった。

最初に『Alessandroが亡くなったらしい』と聞いたときには、『イラクでか?』と思った。
「Marina(海軍)は、イラクには行ってないんだよね?」
「いや、行ってるよ」
「え?じゃぁ、Alessandroも行ったの?イラクに?」
「いや、行ってない。Marinaは行ったけど、Alessandroは行ってない」
「Marinaはどうだった?」
「おもしろかったし、おもしろくなかった。とにかくあの戦争は…狂ってる」
ちょうどテレビのニュースでは、イラクで亡くなった兵士の帰還が繰り返し報道されている時期だった。

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